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最後の客

我々は普段、今日が永遠に続くものと思っている。今日行く会社は明日もあるだろうし、明後日もある。もちろん命ある限り終わりはあるのだろうが、明日がない前提で世の中はまわってはいない。

今日も終電間際の電車で帰途につき、最寄駅前にある深夜営業の喫茶店で紅茶を飲んで本を少し読んでからタクシーに乗り込んだ。そのまま帰るのがなぜか嫌で、最近の週末の日課になりつつある。

タクシーの運転手は初老の男の人であった。こちらは疲れて静かにしていたいのに、今日は寒いですねとか、最近もお客さんは少なめでしてとか、聞きもしないのに乗車直後からポツポツと話しかけられて、ちょっと面倒だなと思いつつも適当に応対していた。

自宅前に着き料金を支払っていると、
    実は今日で引退でしてね、お客さんが最後のお客様でした
とポツリと言った。釣銭を確かめるためについた車内灯で見るとその人の顔はシワが深く刻まれていて、声を聞くよりもずいぶんと年寄りのようだった。

料金を支払い終えると、ありがとうございました、と普段通りらしい挨拶を交わしてドアが閉じた。私は何か言うべきだっただろうが、機転がうまく効かずに下車してしまった。どうも、というのが精一杯だった。

最後の客という響きが耳に残り、いまあの運転手はどんな気持ちで帰途についたのだろうかと考えると、電灯の下に立ちつくしたまま、私はちょっと涙が出そうになってしまった。私は最後の客に値したのだろうか。いまから30分ほど前の出来事だが、不意に訪れた「最後」であった。